『日焼け』 - 2007/08/14(Tue) |
今日は朝から、松之山大権寺高原(ダイゴンジコウゲン)の『真夏の雪まつり』 と言うイベントの司会に行って来て、 今、事務所で遅番の仕事をしている佐藤です。 いやぁ、今日のイベントには沢山の親子連れが全国から集ってくださいました。 本当に楽しいイベントとなりました。 ありがとうございました。 焼けました。 日焼け日焼け日焼け。あぁ日焼け。 猛暑、酷暑と言われる今年の夏・・・。 普通の状態でも外にいると日焼けするのに、 『真夏の雪まつり』は、高原の一角に冬から保存しておいた雪を引きつめ、 その雪の上で、雪上運動会をすると言うイベントなので、 雪による日差しの照り返しが強く、 上からは真夏の太陽!! 下からは照り返し!! と、テリ焼き状態!! コンガリきつね色に焼けました。 Tシャツに短パン、帽子というイデタチの僕は、 Tシャツの丸い首まわりが焼けてしまい、 仕事用ワイシャツを、クールビズでノーネクタイで着たら、 首の付け根から上の顔が真っ黒! ワイシャツの胸元は真っ白!と言う、 "逆スケキヨ"君(映画『犬神家の一族』参照)になってしまいました。 こうなっては、キナーレの池から足だけ出して、 逆立ちしているしかありません(映画『犬神家の一族』参照) んで、こうやって遅番をしていると、 首の後ろがなんだか熱を持っています。 この日焼けの熱と、軽いダルさは、 なんだか子供の頃、プールから上がった後のダルさに似ています。 ちょっと懐かしい・・・。 さてさて、太陽のエネルギーを吸収した佐藤は、 頑張ります!! そうそう、今夜の下条の花火大会は、 ウチの高野綾子アナが、番付読みで行っています。 なんだか浴衣姿での番付読みとか・・・。 下条の花火、花火だけでなく、番付を読む高野アナの声にも注目(注耳)してくださいm(__)m では・・・。 |
『戦争』 - 2007/08/17(Fri) |
なんだか寝苦しく、真夜中3時に、 携帯電話で日記を書き始めた佐藤です。 もう一昨日になるけれど、 8月15日は終戦の日でした。 戦後62年…。 僕は昭和41年(1966年)生まれなので、 勿論、戦争は知りません。 しかし、僕の親は戦争を知っていますし、 祖父は兵士として戦争に行きました。 8月15日だけでなく、普段から僕は考えます。 今、こうして携帯電話でブログを書けたり、テレビ電話ができたり、 コンビニで24時間買い物ができたり、 好きな食べ物を、好きな時に食べられたり、 まして、ラジオ局が十日町市にできたりするのも、 戦争を生き抜き、 「戦後」と言うこの国の存亡の危機を乗り越えるばかりか、 今の日本を、ここまで豊かにしたのは、 僕らの祖父母や父母の世代なのだと…。 日本が開闢以来、 戦国時代や幕末を含め、 国が存亡の危機に陥ったのは、 62年前の終戦の日から始まった「戦後」だけなのです。 「終戦の日」に 「戦争はいけない事です。」 と言うだけでなく、 (勿論、戦争はいけない事だと思う) 僕達の祖父母や父母の世代…。 つまり、先人達が戦後をどう生きてきたかを考えるのも、 必要な事ではないでしょうか。 インタビューしたあるお婆さんが言った言葉が、 心に残りました。 「今の時代、災害が起きても、国、県、市町村が助けてくれる。ボランティアも手を貸してくれるし、保険もある…。でも、戦争が終ってからは、皆が貧しく、自分の力だけで畑を作り、家を建てて頑張るしかなった。今の豊かな時代が夢のようだ…。こんな事初めて話したよ…。」 皆さんは、このお婆さんの言葉に何を感じるだろうか…。 戦争のない世界になりますように…。 |
『劇団』 - 2007/08/18(Sat) |
毎週、放送が終わって、 こうやって日記を書くのですが、 いつも放送後の日記だけは、ちょっと淋しい気持ちで書いています。 やはり、番組が週1回と言うことで、 また1週間リスナーの皆さんと会えないのは淋しい限りです。 さて、相変わらず仕事は忙しいのですが、 それでも消防団の県大会も終わり、 プライベートな時間が少しできました。 となると僕の中でムクムクと出てくるのが、 "劇団旗揚げ"と言う夢です。 東京で舞台役者をし、こっちに戻って来て上越市で、 劇団サンフェイスを旗揚げ、 サンフェイスでは作・演出をやっていました。 オリジナルで書いた作品も・・・。 『ナイフ・アンド・ジュリエット』 『AIR』 『自転車のスピードで終わる夏』 『アイスブルー』 『遥かなる太陽の果て』 『Snow Song』 『ハード・ボイルド・ワンダフル・ワールド』 『アオイ月ハ、キミノ涙』 『紅き薔薇のテロリスト』 『ガールズ・トーク』(短編) 『幕末☆龍が散る』 と、いくつもの作品があります。 どれも、1度の上演です。 (アイスブルーだけは、全国の高校演劇で上演してもらています。) いつか再演をしようと思いつつ、時は過ぎてしまいした。 どの作品も、人間を描いています。 演劇と言うと、なんだか判らない妖精のような者が登場し、夢の世界のお話しを上演する・・・。 などと思っておられる人も多いかもしれません。 (実際、高校演劇ではそう言った抽象的な、作品も多いです。) でも、僕の作品は違います。 『人間を描きたい』 と、いつも思って書いています。 『人間の孤独や傷を描きながら、孤独や傷を乗り越える人達・・・。あるいは、孤独や傷に飲み込まれていく人達』を、 時には現代の若者を通して、時には幕末と言う時代をかりて・・・。 時には悲劇を、時には喜劇を書きながら描いてきました。 そんな僕の芝居を、この十日町市でも上演したいと思うようになってきました。 でも、まずは仕事です。 エフエムとおかまちと言う職場での仕事を、 キチンとこなしてからの劇団。 そして、劇団でやるべきことは、 遊びとしての演劇や劇団ではなく、 プロの役者を育てる為の劇団でありたいと思います。 ちょっと、劇団を数年ぶりでやりたくなっている佐藤でした。 来週もHAPPY TUNEでヨロシク!! |
『テレビとラジオ』 - 2007/08/21(Tue) |
このところ、ちょっと精神的に疲れている佐藤です。 いろいろと悩むところもあり、少々テンション低い感じです。 とは言え、世の中ほとんどの人が、 僕と同じくらい・・・いや、僕以上に悩み苦しみながら頑張っているので、 僕も頑張っていきたいと思っています。 さて、僕は思うのです。 テレビとラジオの違いについて・・・。 僕はこの仕事をする前に、自分で店をやっていました。 いわゆる自営業というヤツです。 店の経営が傾きはじめた時に僕は家に帰ってから、 テレビを見なくなりました。 理由は簡単です。 "テレビには大成功した人か、大失敗した人しか出ていないから・・・。" テレビに出ているタレントさんをはじめ、 いろいろな番組で顔を見る人達は、 その分野で成功したごくわずかな人達です。 一般の人が出演する場合でも、 それなりに成功しているからテレビの取材を受けられるのです。 それに比べ当時の僕はどうでしょう? 店はいつ閉店してもおかしくない状況・・・。 テレビで観るタレントさんの笑顔が羨ましく思えてなりませんでした。 そんな時は自分の小ささを感じ、自分が嫌になったものです。 そして・・・。 テレビのニュースを観るのも嫌でした。 ニュースには、いろいろな事件を起こしてしまった人達が出てきます。 ニュースで事件・事故の報道を観るたびに、 自分のこれからの姿と重なり、本当に嫌でした。 それに比べ、ラジオ僕の心を救ってくれました。 2年3ヶ月も休日の無い僕にとって、 店への行き帰りで聴くラジオには、 普通の人達が登場します。 ハガキやFAXやメールで、日々の出来事を書いては投稿し、 世界中の日常の話題が聴けるのです。 有名な人も普通の人も・・・。 世界的に凄い出来事も、普通の人の普通の日常も・・・。 同じ比率で話題となり、放送されていく。 自分と同じく、苦しんでいる人も、 日々の生活の中で、庭に咲く花に心を癒される人も、 家族や仲間の愛情に喜びを感じる。 そんな普通の生活者の話題が、 世界を揺るがすようなビッグニュースと同じか、 それ以上に重要な話題として取り上げられる。 視聴率優先のテレビでは、 視聴率の稼げる有名人しか出演できませんが、 ラジオは違います。 普通の庶民、普通の生活者の声が登場する。 それがラジオなのです。 隣のお婆ちゃんや、隣の子供達が登場できるのがラジオ。 そのラジオの中でも、コミュニティーFMラジオは、 本当に地域の人達が登場します。 成功も失敗も関係無く登場できるラジオ・・・。 テレビとラジオの大きな違いは・・・。 あるいは、ラジオの魅力とはそんなところではないでしょうか。 |
『僕は思います・・・。』 - 2007/08/26(Sun) |
朝晩、涼しくなり過しやすくなってきました。 バイク通勤も、早朝や日没後は寒いくらいです。 でも、おかげで夜以前より眠れるようになりました。 とは言え、相変わらず眠りは浅く、夜中に何度か目が覚めます。 さて、昨日25日で柏崎市のコミュニティーFM局、 エフエムピッカラさんの災害放送が終了した。 中越沖地震発生の7月16日の地震発生直後から、 実に41日間、24時間体制で柏崎市民、被災者の為に放送し続けてきたのだ。 7人のスタッフが本当に心のこもった放送をしていた。 スタッフの中には、被災し自宅を建て替えなければならない人もいたし、 小さなお子さんを残し、夜勤を続ける人もいた。 それぞれのスタッフが、それぞれの事情や想いを持っての41日間だったと思う。 ウチの局や、県内のコミュニティーFM各局も JCBA信越協議会(コミュニティーFM局の組織)と、 エフエムピッカラさんの派遣要請に応じるカタチで、 エフエムピッカラさん支援に行って来ました。 僕は2度行きました。 ピッカラ・スタッフの皆さんの奮闘ぶりを間近で見る事ができたので、 この災害放送終了のニュースには、いろいろと感慨があります。 本当にエフエムピッカラさんは、素晴らしい局です。 僕は尊敬しています。 本当にお疲れ様でした。 さて、さて、ただ残念な事が1つだけありました。 先日ある方からこんな事を言われました。 「朝ズバッ!って番組で、柏崎のFMピッカラさんの事を放送していたけど、その中で各局支援の事も放送されていたけど、エフエムとおかまちの名前が出なかったよ。宣伝不足なんじゃないですか?」 こう言われた方は、悪気などなく本当に純粋にエフエムとおかまちの名前が、 全国放送のテレビで紹介されなかった事を残念がって言ってくださったのだと思います。 エフエムとおかまちを愛してくれるゆえの言葉なのだと思います。 でも、僕は少し悲しい気持ちになりました。 たぶん、エフエムピッカラさんを支援に行った県内の各局は・・・。 あるいは、各局アナウンサー・スタッフは、 「仲間の局が困っているから出来る事をしに行こう。」とか・・・。 「柏崎市民、被災者が必要としているエフエムピッカラの放送を支えよう。」と言う想いで駆けつけたのだと思います。 少なくとも僕はそんな想いで柏崎に入り、 ピッカラさんでお手伝いさせていただきました。 現に、僕が一緒に行ったエフエム上越(FM−J)の田所アナウンサーは、支援を終えた時・・・。 「私が今日見て感じた事を、どう上越の人達に放送で伝えられるだろう・・・。被災した人達に、何ができるだろう・・・。」 と、真剣に考えていました。 僕達は、柏崎市民、被災者の皆さんに必死で、 正確な情報を伝えようとしている・・・。 市民、被災者の心の支えになろうとしている・・・。 エフエムピッカラさんを、応援し、少しでも手助けをして、 地元に帰って、地元のリスナーさんに、柏崎の本当の姿を伝えようと思っていたのです。 全国放送で名前が放送されるとかは、正直大きな事ではありませんし、 こんな時に放送されても嬉しくはありません。 全国には先日ギャラクシー賞で名前が知れましたし、 そう言う仕事(番組創り)で全国に名前を拡げていけば良いと、僕は思っています。 実際に僕達は、被災した地で放送を続けるピッカラさんで仕事をさせてもらい、 災害が起こった時の放送局のありかたや、 仕事を見せてもらいました。 これは本当に貴重な体験でした。 もし、十日町市で、再び大地震や災害が起こった時には、 今回の経験が相当に活きてくると思います。 そう言う意味でも、支援を受け入れてくださったエフエムピッカラさんには感謝しています。 僕は想います。 コミュニティーFM局は、 地域に根ざした放送をするべきではないかと・・・。 全国に目を向けるより、十日町市に住む人々に対しての放送をするべきだと・・・。 そして、そんな十日町市を全国にアピールできるチャンスがあれば、 その時は、ミュージックバードさんにお願いして、 (全国放送できるレベルの番組を創って) ミュージックバードさんのネットワークで全国放送すればいい。 つまり、全国に出るのは、そう言う充実した番組創りができた時だと思うのです。 僕は・・・。 僕は・・・十日町市の人達に聴いていただける番組を放送したいと思っています。 まだまだこれからです。 純粋に、エフエムピッカラさんを支援でき事。 そして、ピッカラさんの仕事が見れた事は、 僕の中で、とても大きな経験となりました。 エフエムピッカラさん、本当にお疲れ様でした。 来週もHAPPY TUNEでヨロシク!! |