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 『多面性』 - 2007/12/01(Sat)

今日は沢山のメッセージをいただいた。
初めての人や、久しぶりの人、常連の人・・・。
本当に嬉しかった。
皆さんありがとう。

そのメッセージの中にこんなメッセージがありました。

『ブログ(佐藤のつぶやき)と、放送の佐藤さんは、どちらが本当の佐藤ですか?』

時々、同じ質問を受けることがあります。
答えは簡単です。

『どちらも佐藤広樹です。』

人は一面性の生き物ではないと思うのです。
誰の中にもいろいろな面があるのだと思います。
そういったいろいろな面が人格を作り上げているのです。
僕自身、ラジオで喋っている時と、
普段会社にいる時、家にいる時では、多少違いがあります。
いつもいつもラジオのテンションで話していたら、
きっと疲れてしまいます。
ラジオで喋っている時は、適当に話しているように聴こえて、
それなりに気を遣って話しています。
だからと言って、特別良い人になろうとか・・・。
ラジオ用と言うことではないのです。
ラジオパーソナリティーとしての一面です。
僕達はパーソナリティーと呼ばれる仕事ですから、
個々のパーソナリティーが勝負です。
幅広い視野で物事を見られるパーソナリティーこそ、
本当に魅力的なのだと思います。

そして、ブログを書く時は、
ラジオと同じでは、読む人も面白くはないでしょう?
読んでいただくわけですから、
ラジオと違う面が見えなければ、
読んでくださる方に失礼だと思います。
逆にラジオでの喋りがブログと同じでは、
ラジオを聴いてもらうのは失礼だと思っています。

そして、普段のダラダラした私生活をリスナーの皆さん、
ブログを読んでくださる皆さんにお見せするのも、
プロとしては失礼だと思っています。

ラジオで語りきれないことを書くのがブログで、
ブログで表現できないことを語るのが、
ラジオだしと僕は思っています。

なので、ラジオとブログでは印象が違っているのでしょう。
でも、僕自身はこれでバランス良く生きているので、
僕の中では統一されているわけいるわけです。

僕自身、総ての人に愛されたいと思って生きてはいません。
もちろん、多くの人に愛されればそれは幸せなことです。
でも、それは神様だって叶わないことです。
僕は人間ですから、
総ての人に愛されたい・・・。などと思うのはオコガマシイ・・・。
僕の放送を聴いて、

『なんだコイツの喋り!大嫌い!!』

と感じる人だっているはずです。
ちろん、気に入ってくださる人もいる。
僕はそれで良いと思っていますし、
それが自然なことだとも思います。
それでも1人でも2人でも僕の放送を気に入ってくださる人がいるなら、
僕が毎週マイクの前に座る意味があります。
僕番組を楽しみにしてくださる人の為に、僕は話し続けたい。

人間誰しも多面性である。
佐藤広樹も多面性があって、1人の人間なのです。

来週もHAPPY TUNEでヨロシク!!


 『寒かった・・・。』 - 2007/12/03(Mon)

今日は本来お休みなのですが、
先週番組で予告した通りエフエムとおかまちのスタッフととに、
黄色いホッコリジャンパーを着て街に出ました。
ちろん仕事です。

外は本当に寒くてビックリしました。
午前中外にいたら風邪っぽくなり、
慌てて背中にホッカイロを貼りました。
貼るタイプのホッカイロが無かったので、
スタッフの井口クンにガムテープで貼ってもらいました。
そしたらネッツこと、根津さんに

『オジイだ!!』

と言われました。
もう、40歳も過ぎたので、オジイでもオッサンでも良いのです。
ファッションに拘って風邪を引くくらいなら、
オジイで良いのです!!

と言う訳で、午後からは体も温まり、
風邪を引かずに済みました。
皆さんも風邪には気をつけて・・・。

では・・・。


 『臨時研究費』 - 2007/12/04(Tue)

11月21日のこのブログでも
『人の皮膚から万能細胞』と言う素晴らしいニュースについて書きました。
※詳しくは11月21日のブログをお読みください。

そして昨日、この京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授グループの『新型万能細胞〜iPS細胞』と言う研究に、
科学技術振興機構(JST)が研究促進の為、
予算編成前にも関わらず、
異例のスピードで数億円の研究費を追加すると発表しました。
また、研究スペース確保や特許取得の支援も検討するのです。

「お役所仕事」などと言い、
役所仕事は、こう言う素早い対応はなかなかできないものだけど
この科学技術振興機構(JST)の対応の早さは本当に素晴らしい!!拍手をおくりたい。

この追加予算により研究が進むのはもちろんだけど、
万能細胞の研究は世界中が注目する研究。
日本の技術が先んじれば、
特許なども取りやすくなるのです。

ただ、僕個人的にはあまりこう言う研究や新薬開発で、
特許が優先されすぎてしまうのは、どうかとも思っています。
特許によって患者さんが置いていかれるケースもあるのです。
例えば、米国などの製薬メーカーが特許を独占しているために
、HIVの薬が多額になり過ぎて、
発展途上国のHIV患者は、薬が購入できない状態となっています。
ある国では、このHIVの薬のコピーを国が認め、
安いHIVの薬を自国の患者に提供し、
国際問題に発展しているほどす。

とは言え、この新型万能細胞〜iPS細胞〜の技術が確立すれば、
不治の病と言われる病気の治療に役立ち、
多くの病気で苦しむ人々が救われます。
この臨時研究費によって、
研究が進み、
一日も早く安いコストで、
世界中の人々が治療を受けられるようになれば・・・。

今後も僕はこの研究に注目していきます。
では・・・。




 『5年ぶりのケジメ旅』 - 2007/12/06(Thu)

昨日は月曜日の代休でお休みをいただき、
日帰りで東京に行ってきました。
目的は・・・。

『ケジメの旅』です。

5年前まで僕は、
上越市で劇団サンフェイスで劇団代表・演出・作家・制作をしていました。
ck劇団サンフェイスの元の役者・如月せいきち(現・如月せいいちろー)と雷時雨(アズマ シグレ)が、
2004年から東京で立ち上げた演劇ユニット・ウラダイコクの公演があったのです。

"ウラダイコク 第四回公演"『山式〜ヤマシキ〜』
劇団主宰・作・演出・如月せいいちろー
2007年12月5日(水)〜12月9日(日)
劇場=荻窪アール・コリン
※詳しくは『ウラダイコク』で検索してください。

と言う芝居です。
劇団サンフェイスを僕が突然退団して5年が経ちました。
劇団を退団した細かい経緯は省くとして。
僕が退団してから彼らは本当に苦労をしたようです。
"鬼の演出家""芝居の悪魔"と呼ばれていたほど、
当時の僕の稽古は本当に厳しく、
稽古場での僕は徹底的に若い役者を怒鳴りながら鍛えていました。
僕の稽古の厳しさは上越の演劇界では有名で、
噂を聞いた上越教育大学の演劇部などは、
僕が公演を観に行くとヒビッて後づさりする役者がいたほどす。
そんな僕がいろいろな事情があり、
ある日突然劇団を退団することになりました。
如月せいいちろーは必死で僕を止めてくれましたが、
僕の意思は変わらず、退団しました。
その後、劇団サンフェイスは1公演をしましたが、
自然解散となりました。
そして如月せいいちろー、雷時雨は東京に行きウラダイコクを作ったのです。
この5年間僕は一度も彼らの芝居を観に行きませんでした。
それは自分自身への戒めの意味もありましたが、
彼らにとっても僕に対する意地があるだろうと思ったからでした。
かつて同じ釜の飯を食い、
同じ稽古場で涙と汗で芝居を続けてきた者同士。
お互い男の意地とでも言いましょうか・・・。
プライドと言いましょうか・・・。
彼らは彼らで僕に対しての反発心もあるのだろうから、
その辺の整理がつくまでは、
僕は観に行かないと決めていました。
また、僕が観に行くと、彼らに余計なプレッシャーを与えてしまうとも思っていました。

そして・・・5年と言う月日が経ち・・・。
思えば、劇団サンフェイス結成から10年が経っていました。
そこに彼らから届いた芝居のDMのハガキ・・・。

『観に来てください。』

と書いてありました。

5年間・・・。
もうそろそろ観に行っても良い時期か・・・。
僕はそう思い、観に行く決心をしました。

そして昨日・・・。
2007年12月5日水曜日、僕は新幹線に乗り東京へ向かいました。
午前中に東京に到着し、
元の劇団員の渡部がやっている笹塚の古着屋に行きましたが、
残念ながら店は休み・・・。
渡部とも連絡が取れず・・・。
その後、『心に太陽を』の収録でお世話になり、
その後も付き合いが続いているNGOのJENの事務所のある飯田橋へ・・・。
飯田橋の神楽坂の上には、
僕が21年前に芝居を始めた劇団、劇団フジの事務所と稽古場のある専用ビルがありました。
飯田橋の駅に降り立ち、ラムラと言う駅ビルへ・・・。
当時僕らが稽古帰りに寄っていたファースト・キッチンは、
店内の様子こそ変わったものの、同じ場所にありました。
ただ、当時ファースト・キッチンのベランダから見えていた通りは、
道沿いの木々が生長し、見えなくなっていました。
劇団フジを退団してから十数年・・・。
一度も行っていませんでしたから、時の流れを木々の生長で感じました。
そして劇団フジの事務所兼稽古場のビルは跡形も無く・・・。
マンションに変わっていました。

そしてJENの事務所にお邪魔してしばし談笑し、
いよいよ、荻窪に向かうことにしました。

JR荻窪駅南口を出て、
青梅街道に突き当たる辺りに、
劇場アール・コリンはありました。
開場は午後6時30分・・・。
開演は午後7時・・・。
着いた時は午後6時・・・。開場まで30分もあります。
何せ彼らにはナイショで観に来たのです。
僕が観に行くとなると、
如月に雷にプレッシャーがかかります。
舞台の初日と言うのはそれでなくても緊張とプレッシャーがかかるものです。
余計なプレッシャーをかけない為に、
ナイショで着たのでした。
帽子を目深にかぶり、劇場前まで行くと、
なんと如月が劇場前に出てくるではないですか!!

『こりゃまずい!!』

とコートの襟を立ててうつむきながら通り過ぎました。
危ない、危ない。
そこで近くのファミリーマートでマスクを買いました。
ハンチング帽にマスクにコートの襟を立てた、
いかにも怪しい格好ですが、
今東京は風邪流行の季節。
皆がマスクをしているので、ちょっと救われます。
劇場近くのファミリーマートと100円均一ローソンを行ったり来たりしながら時間を潰しました。
6時30分となり劇場前に行くと、受付は外でした。
DMを持って行くと500円安く見られるので、
受付の女性にDMを見せると、

『如月のお知り合いですね。名前を控えさせていただきます。』

とのこと・・・。
マズイ・・・・。
と思ったものの・・・。
名前を控えるのを断るりゆうなく・・・・。

劇場は本当に小劇場でした。
高みの無い小さな黒いスペースに、
最小限の照明。
そして客席も30席程度・・・。
僕は出入り口に一番近い、一番奥の端の席に座りました。
終わったらすぐにアンケートだけ残し劇場を出るためです。
帽子を目深にかぶり、マスクしてうつむいて開演を待ちました。
開演5分前にトイレに行こうとすると、
1つしかないトイレの前に列ができていました。
並ぶことにしたのですが、
いつ如月や雷が出てくるかわかりません。
端に並びうつむいて通路に背を向けていると、
スタッフさんが声をかけてきました。

『大丈夫ですか?』

小さな劇場です。
客席の音は楽屋に聞こえているはず・・・。
劇場内の楽屋の位置がわからないので、

『・・・大丈夫です・・・。』

と小さな声で話し、楽屋に声を聞かれないようにしました。

そして開演・・・。
5年ぶりで観る如月せいいちろーと雷時雨の芝居・・・。
5年間の成長も観れましたが、
まったく変わっていない気もしました。
とても懐かしく・・・。
2人の芝居を観ている間、いろいろな想いが心を通り過ぎていきました。

2時間の芝居が終わり、
役者が揃って劇場前でお客さん見送りをするする"客出し"が、
近所の迷惑になるとの理由で、
劇場内で行われることになりました。
芝居が終わったらパッと帰ろうと思っていた僕には誤算でした。
そうこうしているうちに雷に気づかれ、
つづけて如月にも気づかれました。

『ご無沙汰しております。』

雷が僕に声をかけ、
如月が冗談半分で土下座して挨拶してきます。

新幹線の最終の時間もあるので、
一言二言2人と話し、劇場を後にしました。

十日町に夜中の1時に到着してから如月に電話をかけました。

『今日、佐藤さんが観に来てくれて、本当に嬉しかったです。』

如月の言葉が5年間の空白を埋めてくれるようでした。

『次回も観に来てください。』
『そうさせてらうよ。』

お互いが、お互いを意識しながらもすれ違った5年間・・・。
僕もやっと止まってしまった時間を動かすことができそうです。

5年かかった"ケジメの旅"やっと終わりました。



 『人間の錆(サビ)』 - 2007/12/07(Fri)

ここ数日身体のダルイ佐藤です。
どうも風邪気味のようです。
体調はイマイチです。
明日のスタンド・バイ・ユーまでには、
体調を戻さねばなりません。


さて・・・。

『人間錆つくものだなぁ』

とつくづく思っています。
昨日のブログにも書きましたが、
一昨日の水曜日、東京荻窪に、
昔の劇団仲間の芝居を観に行ってきました。
実際の舞台を生で観るのさえ2年半ぶり・・・。
すっかり僕の舞台演出家の脳ミソは錆付いていました。
昔だったら芝居を観ながら"ダメ出し"が次から次と出てきて、
メモを取らないといけないくらいその芝居の"ダメな部分"が見えたものでした。
それが体調不良とは言え、
芝居を観ている最中は違和感を感じる部分はあっても、
ダメ出しをハッキリ言えるまでにはならなかったのです。
舞台の演出家のダメ出しとは、
例えるならば霊能力者に似ています。
普通の人があるホテルの部屋に入って、
なんだかわからないけれどその部屋に入った時に、
気持ち悪いと感じたとします。
でも、その気持ち悪い原因はわかりません。
霊能力者ならば、部屋に入った瞬間に、
その気持ち悪い原因が、女性の霊のせいだと言い当てるでしょう。
舞台の演出家は、一般の観客が

『なんだかわからないけれど、この芝居・・・あるいは役者が面白くない。』

と感じる部分を

『この芝居のここが面白くないから、こう言う演技に変えたほうが面白くなる。』

と、ハッキリ芝居のダメな部分が見えて、
その上でどうやったら面白くなるかを指摘できるのなのです。
それが・・・。
芝居を観ている時はそのダメ出しが出てこない・・・。
帰りの新幹線の中・・・。
車の中・・・。
そして昨夜になってから・・・。
次々にダメ出しが出てくるのでした。
面白いので、
芝居を観た直後より、
時間が経てば経つほど、
芝居のワンシーン、ワンシーンがハッキリと思い出され、
その記憶の中の芝居で、
ダメ出しできるようになってきました。
僕の舞台演出家としの頭の錆が、
錆とり薬をかけたように錆がとれてきました。
結局昨夜も深夜に電話をくれた役者の雷時雨(アヅマシグレ)君と、
1時間20分近く今回のウラダイコクの芝居について話してしまいました。

とは言え、僕は彼らが羨ましい。
芝居を続けている彼らが本当に羨ましいのです。
彼らは役者でありながら作・演出もこなします。
なので、芝居ができる。
僕は元役者ではありますが、
役者としてはダイコンでした。
作・演出なら自信はあるものの・・・。
作・演出だけできても、
役者とスタッフがいなければ舞台はできない。
いつかまた劇団を創りたいと思うけれど、
いつになることやら・・・。

何処かに僕とアマチュア劇団を創りたい人いませかぁ?
でも、僕は芝居となると、人が変わるからなぁ。
芝居を作る時は"鬼の佐藤"になります。

では・・・。



 『付き添い』 - 2007/12/09(Sun)

昨日は、スタンド・バイ・ユー放送後、
夕方から会社の忘年会がありました。
役員と社員一同が揃っての忘年会でした。
昨年の忘年会は、経理の新人・竹内君が司会をし、
盛り上げてくれました。
今年は企画営業の新人・井口君が盛り上げてくれました。
エフエムとおかまちには、
アナウンサー以外にも、
場を盛り上げる達人がいます。

さて、僕は毎週日曜日と月曜日がお休みです。
今回の休みの二日間は、
上越市の某病院で、
入院している祖母の付き添いをしています。
このブログもその病院で書いています。
母方の祖母の事を、
僕たちは子供の頃から愛情を込めてババと呼んでいます。
ババはもう90歳。
少し認知症があり、上越市の老人ホームに入所していました。
先々週入所していたホームで、
転倒し骨折したのです。
それで、家族や親戚が交代で付き添いをしています。
今日と明日が僕の番と言うわけです。

祖母は子供の時に茨城から新潟に来ました。
そして新潟で結婚し、子供が4人できたのです。
しかし、30歳になるかならないかの時に、
若くして夫(僕の祖父)が他界。
女手一つで道路工場や農業をし、
4人の子供達を育てあげたのです。
明るく元気なババです。
僕は小さい時からババが大好きで、
年に何回も一週間くらいババの家に泊まり、
ババの家から保育園に通っていました。
ババがいなければ僕も生まれてこなかったわけですから、
ババには感謝しなければなりません。
そんな感謝の気持ちを込めて、
今日と明日はババの側にいたいと思います。


 『静かで豊かな時間』 - 2007/12/11(Tue)

日曜日、月曜日の二日間、
朝から夜まで上越市の某病院で、
祖母の付き添いと介護をしてきました。
もう90歳の祖母は、
2週間ほど前に入所している老人ホームで転倒し、
大腿骨を骨折してしまいました。
少し認知症のある祖母。
家族の付き添いが必要です。
そこで祖母の住む家の伯母が中心となり、
付き添っています。
さすがに伯母も疲労が溜まってきたため、
日曜日と月曜日が休みの僕が付き添いとなのました。

2人部屋の祖母のベットの横に椅子を置き、
祖母が目覚めると話しをし、
お茶を飲ませ、
祖母が眠るとバイク雑誌のツーリング記(旅行記)
を読み、
祖母が目覚めるとまた話しをして、
オムツを交換したり、
ポータブルトイレに座らせたり、
そしてまた祖母が眠ると、
バイクでのツーリング記を読みました。
おかげで北海道から沖縄、ハワイまで全国各地をバイクで旅した気分になりました。
静かで豊かな二日間を、
祖母のおかけで過ごすことができました。
不思議なことに、祖母のベットの横は、
本当に心安らぐ特等席でした。

祖母は、小さい時に茨城県猿島郡逆井山村から、
先に嫁いでいたいた姉の看病をしに、
こっちに来たと聞いています。
10人兄弟だったので、いわゆる"口減らし"で来たとも聞いています。
そして、僕の祖母は当時子供のいなかった家に、
僕の祖父とともに養子に入り、
その後祖父と結婚して、
祖父とともに、なんの血筋もないその家を継ぐくとになったのです。
その後、僕の母を筆頭に二女二男を産みましたが、
若くして旦那(僕の祖父)が他界。
女手一つで4人の子供を育て上げました。
道路工事や農業で苦労しながらの生活だったようです。
その後、茨城の実家に帰ることもなく縁が切れ、
茨城の僕の本当の血筋は、
どこにいるのかわかりません。
僕はそんな祖母が大好きで、
小さい時から同じ村にある祖母の家に、
1週間くらい平気で泊まり、
祖母の家から保育園に通っていたほどです。
祖母は明るい性格で、
言葉も茨城訛りの松代弁です。

祖母は茨城の出身ですが、
昔、祖母は母親からこんな話し聞いたと教えてくれました。
それは、祖母の家系は「一心太助」の物語で有名な、
徳川家康や三代将軍・家光に仕えた徳川家家臣・大久保彦左衛門の末えいだと言うのです。
つまり、その話しを信じれば、
僕の祖先は徳川家家臣・大久保彦左衛門と言うことになります。
にわかに信じがたい話しですが、
信じて生きたほうが楽しいので、
僕は祖母からその話しを聞いた十数年前から、
その話しを信じるようにしています。
今となっては、茨城の血筋、親戚とは縁も切れてしまい、
祖母に聞いても住所の番地などもわかりません。
母や伯父、伯母も聞いていないようなので、
確かめようがありませんが、
戦国乱世、天下泰平の江戸時代を生きた武将の血が流れていると思うと、
ちょっと勇気が湧いてきますからね。

祖母は食欲もあり、
まだまだ100歳くらいまでは大丈夫そうなので、
祖母から受けた愛情を、
少しづつ返していきたいと思います。
では・・・。




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